【2】噂


 騎士団《TIME》団長ことグリゴリーが、副団長の部屋へと入ってきた理由はただひとつだけ。
「失礼しますよ」
 部屋の持ち主が読書中のようだったので、一応挨拶の代わりとなる言葉をかける。
「あぁ…。グリゴリーではないですか……」
 モノクルをかけた副団長がページをめくりながら言葉だけ返す。
「私がここへ来た理由を、貴方は御存知でしょう…?キリル ウラディミール」
 グリゴリーが副団長であるキリルへと静かに言う。
「さて…。私には何の事を言っているのか、想像も……」
「『つかない』とは言わせませんよ!」
 机の上を勢いよく叩く。
 その怒りようを感じ取り、キリルは本から視線を外しグリゴリーへとようやく視線を移す。
「グリゴリー…。『あの時』私はきちんと居ただろう?」
「『あれ』で『居た』ですか?貴方は私に何をさせたか、覚えていらっしゃらないのですか?」
 どうやらグリゴリーの怒りは、そうそう簡単に治まらないらしい。
「いいですか?…あの祭典で個人の部屋を頂いた事をいいことに、貴方お得意の『方程式』で嘘を作り上げたではないですか。しかも、私の所に『後は任せた』なんて言葉を置いていって…。私まで共犯にさせる魂胆だったのでしょう?」
「それが終わった今、何も外からお咎めが無いという事は、きちんと手伝ってくれたということでしょう?」
 キリルの言っている事は間違っていない。
 今、こうやって普通に過ごせているのは、彼の助けがあってこそなのだ。
「キリル…。貴方、初めから私を巻き込むつもりだったのでしょう?」
 グリゴリーのセリフは間違ってはいない。
「そうだと思うのならば、そう思っていてもいいさ。だが、グリゴリー。考えてもみろ。あの祭典に何の意味があるんです?」
 キリルがそう言うもの仕方の無いことだった。
 この国が作られたばかりの頃と今とは、全くもって内容が違うのだ。
 今となっては形式だけの物と化しているのが事実だ。
「私達がそこに居て…何になるというんだ?ただ形だけの『置物』のようなものだろう…?私がここにいるのは、そのような事をする為ではないんだよ」
「確かに…。貴方の言い分も解りますよ。ですけど…、国王を護るためにいる私達が国王も参加なさる式典に出席しなくてどうするのですか?」
「騎士団《TIME》で一番強い団長の君が居るではないか」
 貴方が白系魔法使いだとしても、最強を誇っているはずだから、ある程度のことは出来るだろう?と、キリルは付け足す。
「私は貴方に勝った憶えがありません」
 いきなりグリゴリーが言った。
「おや…?今年度も前年度も決勝戦で戦ったではないですか」
 確かに。キリルとグリゴリーは年に一度だけある《TIME》公式の大会の決勝戦で幾度も戦っていた。
 黒系魔法使いであるキリルと白系魔法使いであるグリゴリーの決勝戦は、誰もが想像していなかっただろう短時間で終了した。
 全ての試合が『キリル ウラディミールが途中で負けを認めた』という記録で…だった。
「あれを『戦った』と言うのですか?……言わせて頂きますが、私は本気の貴方と手合わせしたことがありませんよ?」
 この世界の魔法使いは、魔法の呪文を唱えるのではなく、空にいくつもの方程式を短時間で解きその答えとなるものが発動するというものだった。
 魔法使いの良し悪しは、その方程式を解く早さが鍵を握っていると言っても過言ではない。
「噂でよく耳にしますよ。『本気にさせた副団長ほど綺麗な方程式を組み立てる魔法使いは居ない』とか、『あの人の方程式を解く早さは尋常ではない』とか、『あの調子だととてつもないモノを召喚できるのではないか』とか。貴方の噂をね」
「おや…?あと二つ程…俺が知っている噂が入っていないね。…教えてあげようか。グリゴリー」
 キリルがニヤリと笑って椅子から立ち上がる。
 机を挟んでキリルの向かい側に立っていたグリゴリーは、そのキリルの動作に合わせて視線を動かす。
「まだあったのですか…?」
「そう。『実はこの姿すら影で、本体が別な所から動かしているんじゃないか?』とか『実は創立時から今もなお存在すると言われている、あの伝説の《ハロルド レヴィ ストロース》なのではないか?』。……まぁ、こんなトコロかな?」
 淡々とした表情で、キリルが言う。
「そんな噂まであるのですか…」
 そのセリフにキリルは再びいつものあの笑みを浮かべるだけだ。
 確かに、この人物はあまり大衆の面前に出ようとはしない人間であった。
 だから、大勢居る《TIME》騎士団員がこの姿ですら影なのではないかと思うのも解らなくはない。
 でも、《ハロルド レヴィ ストロース》ではないか?という噂は、どうかと思った。
「なんで、貴方があの偉大な《ハロルド》になるんでしょうね」
 グリゴリーは近くの本棚へ歩み寄り、そこからひとつの本を取り出した。
 その本のタイトルは『《TIME》の歴史』とあった。
 別に、これはキリルの趣味でこの本棚にあるわけではない。
 騎士団《TIME》に入隊するときに必ず一人一冊渡される本だった。
 その一度も開かれたことの無いような真新しさをかもし出している本の目次を開くと、とある項目に『ハロルド レヴィ ストロース』というタイトルを見ることができた。
 この国で彼を知らない大人は居ないだろうという程、彼は伝説の人間だ。
 《TIME》創設に関わり、そして当時横暴を繰り返していた国王を権力の座から引き落ろした中心人物の一人である。
 その彼も《TIME》を創り終えると、その場に居座ることなくこの地から姿をけしたと云われている。『再びこのような事がこの国に起きるようであれば、私はその国王を潰しにやってくる』とだけ言い残して…だ。
 その言葉だけでは『今も生きているだろう』と言われる理由にはならないのだが、その根拠となるべきもの(あくまでも噂の範疇ではあるが…)が、いくつも存在しているのだから仕方が無い。
「もしかして、この『《ハロルド》は時に自分の名前を《キリル》と名乗っていた』とあるからですかね?」
 この世の中でハロルドを尊敬している人物は多い。
 そして、自分もその中の一人だった。
 だから彼の話はよく知っている。
特に目を通さなくてもわかるのだ。
「そうだと思いたいね」
 キリルが溜息混じりに言った。
「そんな大層な噂を頂いてもね…。まぁ、この姿も実は影じゃないか?って噂は別に構いはしないんだが…」
 キリルがそう言ったところで、グリゴリーは「もしや…」と思った。
 口に出す前に、行動に出てみる。
 グリゴリーは持っていた本を片手に持ちなおし、あいた手で空に方程式を書き始める。
 自分たちのクラスになると、手で空中に書くと同時に口でもプラスαの追加方程式を解くことが出来るのだが。
 キリルのそれに対する反応は至って通常と変わらない様子だった。
 グリゴリーが方程式を解き始めた後時間をおいてキリルも方程式を解き始める。
「敵を探る為に、出来ない白系方程式を研究していた時期があってね…。そのような白系拘束魔法の方程式なら、黒系のわりと簡単な応用方程式で返せるのだよ」
 手では方程式を解きながら、口では挑発ともとれる言葉を言っている。
 だが、キリルはその方程式を途中で止めたのだった。
「止めた。グリゴリーの考えるとおりだよ。私はここに居る」
 その声はグリゴリーの後ろから聞こえてきた。
 キリルの姿は未だにグリゴリーの前にあるのに…だ。
「なんで、あの時も自分で影を操作させなかったのです。影に方程式を解かせる事だって出来る貴方が」
 グリゴリーは正面に向かい合っているキリルから視線をそらし、後ろを振り向いた。
「その理由。貴方なら気づいているのではないですか?」
 そこに立っていたのもキリルだった。
「『こうなる事』が分かっていたからでしょう?」
「まぁ…ね。『この方』が、自分に有利だと思ったからですよ」
 キリルは片手をゆっくりと持ち上げ、空に軽やかに指をはしらせた。
 すると先程までグリゴリーの対応をしていた『キリル』が霧のように消えていった。
 グリゴリーはそれを背中で微かに感じ取る。
 小さく溜め息を吐くと、微妙に話を切り替えた。
「ところで…。今までどちらに行っていたのです?また『昼寝』ですか?」
「まさか…。寝ている時まで影を作っていられやしないよ。さすがに…私でもね。姿だけなら何とかなるかもしれないが、先程は方程式を使おうとしていたんだぞ?隣の私室で様子を伺っていたのさ」
 それを聞いてグリゴリーはさらに大きく溜息を吐いた。
「貴方って人は…。どうして私達をそこまで騙そうとするのです?まぁ…、祭典のことに関しては私も加担してしまった部分がありますから、これで帰らせて頂きますが。今度は手伝いませんからね!いいですか?キリル」
「優しい団長さんに感謝いたしますよ。心からね」
 グリゴリーの怒りの感情を軽く笑みで交わし、キリルは彼の肩を軽く叩いた。
「影でも方程式を解けるのは噂では無く本当の事として信じてくれても良いが、《ハロルド レヴィ ストロース》の話は噂としてこれからも聞き流してくださいね」
「言われなくても分かっていますよ。私だって夢と現を間違えるほど馬鹿ではありたくないと思っていますから」
 そう言ってグリゴリーは部屋を後にした。


「《ハロルド レヴィ ストロース》ね…。全く…嬉しすぎる賞賛だね」
 キリルは執務室にある椅子へ腰掛け、先程まで自分の影が開いていた本を手にした。










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