【3】 キリル ウラディミール


 書庫へ今まで拝借していた本を返しに行ったはいいのだが、その時いた司書が顔見知りだった為、再び興味の引かれる本を紹介され。今度は了解を得た上で拝借をしてきてしまい…。
 結果、プラマイのプラスになってしまったような気がして仕方がないのだが…。
 このまま自分の持ち場に帰る前にしないといけないことを先程みつけてしまった自分としては、その事が気になってしかたがない。
 …で、結局こうしてその扉の前に立っているのだった。
「はぁぁ…。そんなに怒っていなければいいんだけど」
 重い本を担ぎ直し、体で扉を押すように入っていく。
「お―…い。遊びに来てやったぞー」
 口では大層な事を言っているが、内心はどうなることやらびくびくしていた。
 入り口正面には大きな机が一つある。
 というか、この部屋にはそれ以外、壁に取り付けられている本棚しか存在しない。
 机の上に一輪挿しでも置けば良いのにと思うのだが、本人はそういうことが嫌いらしかった。
「来ると思っていたよ」
 外を向いていた椅子がくるりと180度回転しこちらへ向く。
 もちろんその椅子にはキリルが座っている。
「やぁ、二キータ レフ。また新しい白系方程式のお勉強かい?」
「ちょっと頼みたい事があってさー」
 キリルの言葉を聞いて少しばかり驚きながらも、別なことを言った。
 あくまでも自分からは地雷を踏まないように…と、思っての事だ。
 しかし…。内心、意外だった。
今までグリゴリーのお小言を聞いて機嫌を損ねなかった事など無いに等しいのに…。
「またか…。ところで、俺は君に言いたいことがあるんだが…」
「あっ。やっと届いたのかい?君の所へ」
 ニキータ レフは、本を机の上にキリルの了解なしに置く。
 キリルも黙ってそれを見ているだけだ。
「俺をどうしたら《ハロルド レヴィ ストロース》になるんだ?俺の名前が『キリル レヴィ ストロース』だからか……?」
 キリルの言葉にニキータは微笑むだけだった。
 キリルのフルネームを知っているのは、この《TIME》の中でこのニキータ レフただ一人。
 ハロルドの話はキリルも知っている。
 だからこそ、本名を《TIME》では名乗らずに、『キリル ウラディミール』と名乗っているのだ。
「誰がこの名前を俺に付けたか、知っているだろう…?幼馴染の君ならば」
 ニキータが机の上に置いた本を手にとり、中をパラパラと眺める。
「今度は少しばかり上級者向けかい?本業は騎士なんだから、魔法はそんなたいそうなモノは使えないだろうに……」
 本を眺めながらキリルが付け足す。
「まぁね。君より年上なんだから、見てはいないが知っているさ。名付け親をね。でも、別にいいじゃないか…。ハロルドと間違われたって。……逆に嬉しいだろう?」
 ニキータはニヤリと笑みを浮かべながら言う。
「それに、その本は読んだって損というわけではないさ。さっきも言っただろ?君に頼んで略式方程式を作っていただこうと思ってね。白系の自作は出来ないだろうから、本を持ってきたんだよ。感謝してくれよ」
 机を挟んで経っていたニキータがその場から身を乗り出してキリルから本を奪い取り、その本のとあるページを開いて再び渡す。
「ほら。これこれ。これと…これを混ぜたモノを作って欲しいんだけど……」
 受け取らずに、キリルは覗き込むように見た。
「あのなぁ…。俺にだって、出来ることと出来ないことがあるんだぞ?」
 それを聞いたニキータは、再び笑みを浮かべながらキリルを覗き込む。
「うそ。今までそう言っても出来なかったことは無いだろう?」
 キリルはため息を吐く。
「わかったよ…。君の言う通りにしよう。……だが…時間をくれないか?今回は変則的な方法でやってみたいんだ」
「さっすが!お礼は勿論するからさっ!!も―…だいすきっ」
 キリルの背中をばしばし叩きながら、喜びを伝える。
「はいはい…。わかったから」
 自分の背中を叩いている手をつかみ、キリルはそれを止めた。
「…で……?本来の用件は何だ?図書室へ行く前からここへ来る予定を立てていただろう?」
「何で、そんなことまで知っているんだよ…」
 先程までは喜びに満ち溢れていたのに、一瞬にして表情が変わる。
「グリゴリーがこの部屋に来た所を見ていたんだろう?」
 今までかけていたモノクルを外し、机の上に静かに置く。
 問いかけに対して、ニキータは黙っていた。
 その様子をキリルも黙って見ながら椅子から立ち上がり、ニキータの所へゆっくりと歩み寄っていく。
「そして、君は前回の祭典で俺が何をしていたかを知っている。……一緒に居たのだからね」
 キリルの言葉に、ニキータは黙ったまま足元へ視線をそらした。
「おそらく…。グリゴリーから色々とお小言を言われた俺が、怒るだろうと思って慰めに行こうと思っていたのだろう?自分に向かわれるだろう感情を先回りして最小限で済ませようとする。……自分を守る為に、自分を犠牲にするわけだ……」
 涙ぐましいコトだなと、言いながらニキータの背中を何気ないしぐさでゆっくりと押す。
「そんな優しい君に、休養をあげるよ。あの四人部屋の騎士団寮だとゆっくりもできまい?だから、俺の隣の部屋でゆっくりと昼寝でも読書でもすればいい」
 促されるままに連れて行かれたのは、何度もお邪魔したことのある、キリルの休憩場所として宛がわれている個人部屋。
 騎士団の団長・副団長クラスにしか頂けない部屋なので、内装もとても丁寧な造りとなっている。
「キリルはどうするんだよ…」
「俺かい…?俺は君から頂いた仕事をするさ。そうだな…報酬は……。君のその優しい心を頂いて、これ以上俺がハロルドではないか?という変な噂を流さないと約束をしてくれさえして頂ければ」
しかしその言葉を聞いても心配なのか、沈黙のまま何かを言いたそうにニキータがキリルを見る。
「まぁ。君も分かっているように、暇そうに見えても多忙な身だからね。『大丈夫だ』と気休めの言葉を言うのは止めておくよ。でも、だからといって幼馴染のお願いを聞かない理由も無いしね」
 キリルが部屋の扉を開けて中へ案内した。
 疲れた時は、いつも逃げ込む場所となっている。
 別に珍しいことではないだが、今日は何かが違う気がした。
 その違いが何なのか、理解できなかったニキータは再びキリルを見る。
「今日は機嫌が特別良いんでね。俺の機嫌が良い内に、大人しく休んでいたらどうだ?」
 …と、ここまでは本当に優しさしか見当たらなかったのだが、何をどう間違ったのだろうか?
 一瞬にして状況が変わる事となった。
「それとも…そんなに心配で眠れないなら、俺が寝かしてやろうか?…最近作った新しい方程式があるんだよ」
「ちょっと待てよ…。俺を実験台にするな」
 身の危険を感じ、くるりと向きを変えて部屋を出ようとする。
 しかし、キリルはそれを許可しなかった。
「まぁまぁ…。いいじゃないか。気を使ってくれたお礼だよ」
 腕をつかまれたニキータは、ずるずると部屋へ引き込まれていく。
 あくまでもこれは善意でしている事だとキリルは言うが、ニキータにとっては嫌がらせにしか思えなくなっていた。
「いーやーだーっ!そんなコトなら、まだ子守唄を聞いた方がましだーっっ!!」
「わるいな。俺は人前で歌を歌わないんだ」
 それすらも却下され、二人は部屋へと消えて行ったのだった。





 数分後。
 部屋の扉が開き、出てきたのは勿論の事ながらキリル一人だった。
 しかも、ニキータが目を覚ましたのは二日後となる。
 ……つまり、新作の方程式にはまだ改良の余地があったということだ。


Fin.





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