【W】 もう一つの生活


 天野 咲也が、とあるマンションの扉の前にたどり着いた。
「おかえりなさぁい!どうだった?」
 扉を開いたとたん、一つの部屋から小さい女の子が駆けてきた。
「ただいま…あかり。そっちこそ、久しぶりの一人はどうだったんだ?」
 質問を質問で返す。
「今日はベランダにいたの。花が綺麗に咲いていたよ?風も気持ち良いし…さくやくんは?」
 話を別な方向へ向けるつもりだったが、あかりにはそのつもりが無かったらしい。
「……負けたよ…」
 暫くの沈黙がやって来た後、苦笑をしながら咲也が溜め息混じりに負けを認めた。
「久しぶりに面白そうだと思ったよ。楽しくなりそうだ…」
 本音を語り、少し恥ずかしそうに、自分の部屋に入って行った。
 あかりはその後ろ姿を見て嬉しくなった。
「次こそ…。さくやくんには、幸せになって欲しいな……」
 ふと時計を見てある事を思い出し、くるっと向きを変えて、キッチンへと向かう。
「お茶の時間にしようかな?」

 暫くすると、制服を脱いで普段着を着た咲也が、部屋から出てきた。
 一人用のソファに座る。
 そして、一回膝をぽんと叩き、両腕を軽く広げた。
「ほら」
 『こっちにおいで』の合図。
 あかりがすぐそれに答える様に、咲也の膝に座った。
 少し長い髪を結んでいるリボンを解き、結び直す。
「……今度、服を買いに行こうか…」
「またぁ?」
 そうなのだ……。
 最近も買ってもらったのを憶えている。
「こう…永い間ここに居ると、欲しい物も無くなってお金だけ貯まっていくのだよ」
 外見だけは若い年寄りだな…と思った。
「…あ……」
 咲也が何かを思い出したようだ。
「?」
 あかりが咲也を見上げる。
「『森 和博』と帰りに偶然会ったんだ…。その時にテニス部に誘われてな……」
 表情はいつもと変わらない様に見えるが、声がいつもよりも嬉しそうに感じた。
「入るの?」
 あかりが尋ねると、咲也はいつもの笑みを浮べるだけだった。
「そうだ……。ねぇ…、さくやくんが部屋に着替えに行った時に、私お茶の準備をしていたんだ。お茶の時間にしない…?」
 あかりが咲也をお茶の時間へと誘う。
「今日はねぇ。さくやくんが帰ってくる前に、お菓子を作っていたんだぁ」
 嬉しそうに咲也がいなかった時間の事を話していく。
「あかりの事だ…。上手に出来たんだろうな」
 咲也はあかりの頭に、ぽんと手をのせ優しく撫でた。
 あかりは嬉しそうに目を細める。
「そうだな。…好意に甘えて…ゆっくりしようか………」
 咲也は同意の言葉を口にすると同時に、あかりを膝からおろして立ち上がり、二人でキッチンへと向かった。


 『あの時』から何年たったかは、もう数えていない。
 自分が後ろ向きに考えている事が、嫌になったからだ。
 それくらいの年月が経った今、ようやく見つけた様な気がした。


 今こそ、自分に変化の来る時だ……と…。



 その夜―…。
「よぉ」
 あかりは自分の部屋でもう寝ている。
 咲也が居間でくつろぎながら本を読んでいたところに、一人の男が入って来た。

 彼の容姿は…といえば。
 背は高い方だと思う。でも、俺よりは低い筈だ。
 髪は、少し長く肩までの長さ。さらさらで、真っ直ぐな。多分、女でも羨むくらいの……。
 でも人からは警戒されそうな…。あまり人懐っこい雰囲気は無い。
 表情からもそれがうかがえるし、その上、黒を基調とした服を着ているのだ。
 自分が見る時は、何時も黒を基本色にした服が多い。時々それとは反対の、白を基本とした服を着ているのを見るくらいで、有彩色の服を見た事が無い。
 別に似合っていないという事は無い。むしろ、似合い過ぎているくらいだ。黒も白も…。

「どこから入って来たんですか…?」
 読んでいた本を閉じて尋ねる。
 その人物は軽く笑ってベランダを指した。
「ここは一階じゃないですよ…?」
 その様な事、この人には通用しないと解っているが、一応言っておく。
 そんな咲也の言葉に、相手は軽く鼻で笑うだけだった。
 神出鬼没という言葉が、良く似合う人物である。
「いつもの『あの子』は…。今日は、一緒じゃぁないんですか?」
 自分の所に来る時は、いつも一緒だった筈の元気な女の子が今日はいなかったのだ。
「今日は旧友に会っているよ。今はもう…あれから月日も経っているから、そこそこの年齢になっているがな…。俺もどうかと誘われたが、俺はここで聞きたい事があってね。今回は辞退させて頂いたのさ。あいつには悪かったけどね」
 苦笑を浮かべながら、肩を竦めていた。
「……なら、お聞きしますが。その気になる事とは何ですか?猩々緋様。俺で答えられる事ならお教え致しますよ…?」
 咲也が相手に尋ねる。
 『猩々緋』と呼ばれた相手が、少し場所を移動して咲也の座っているソファとセットで揃えてある長いソファに、腰をおろした。
 猩々緋が動く度に周りの風も動く。
 彼の肩まである髪も、それに合わせてなびいている。
 今はベランダのドアが開いているから、当たり前のようにも思えるのだが。例え、どんなに密閉されている場所であっても、彼が行動を起こせばそれに合わせる様に風が起こるのだ。
 咲也はそんな所が、『猩々緋』が『猩々緋』たる所以なのだ…と、その羨ましい光景を目の当たりにする度に、実感してしまう。

 『猩々緋』とは、彼の本当の名前ではない。
 それは、『この世界』の人誰もが知っている名前…。おおまかに言えば、『階級名』のようなモノだ。しかも、この名前を聞けば誰もが引き下がってしまうくらいに、凄い名前だった。
 本人の本当の名前は…?と言うと。
 それは、一部の人しか知らない事で…。
 本人からは本当の名前は聞いた事もないし、多分聞いても教えてくれないだろう。
 ――そんな事を聞いてどうする?私は私だ――
 そういう答えが返ってくるに違いない。
 しかし―…、自分は全く知らない訳ではなかった。
 何度か遠目に見た事はある。
 だが、本来会うべき場所では会話をした事が無い。
 何故かと言うと、その時の彼は『猩々緋』では、なかったから―…。
 自分が『猩々緋』と会った時は既に、その『本来会うべき場所』にその人の姿は無く…。
 噂では、行方不明。下手をするとある人は消息不明、またある人は生死不明とまで言われているくらいの人物になっていた。
 でも、その『生死不明』とまで言われている『猩々緋』が、願ってもいないのに自分の前にだけ現われるのには、自分にも理由が見当たらなかった。
 他の人にも『猩々緋』の存在を知らせた方が良いのでは?とも、思った事はあったが、自分が一人でいる時にだけしか現われない所を見ると、他の人には知られたくないのだろうと考え、今では知り合いから尋ねられても「知らない」と言うようにしている。
 勿論、そうでなくても今まで誰にも言った事は無いが…。

 一息ついて猩々緋が口を開いた。
「ペア組む相手が見付かったって…?」
「何でそれを……」
 咲也が少しびっくりした。
 まだ、最近の話だ。噂として知れ渡るには早すぎる。
 その上、その話が流れるであろう場所に、この人が顔を出すということは、確信を持って無いと言えるのに―――。
「ん…?」
 猩々緋は咲也の驚いた表情を見逃さなかった。
 それを見て、嬉しそうに笑う。
 それでも控え目な笑みだ。
「『風の噂』…だよ。風のね」
 ――知りたい事はタイムリーに知らせてくれる――
 まぁ、そんな所か…。
「で、どんな奴だよ?…男か?女か?」
「知っているくせに…。何を聞いているんですか?」
 咲也が呆れながら言う。
「一応…な。『普通なら』こう切り出すだろう?」
 『普通』からはみ出している存在だからか…。
 『普通』に憧れて。
 この人は『普通』を演じている。
 普通なんて、自然にしているからこそのモノだと思うのに…。

 『演じている』だけで普通に歪みが入る事に、この人は気が付かないのだろうか…?

 それぞれに、自分に無いモノを探し求めているのだろう。
 それが例えどんな結果をもたらすモノだとしても…。

 お互いの立場は違えど、似た者同士だと思ってしまった。
 だからだろうか、こんな人が俺の所によく来るのは。
 意外にかわいい一面があるモノだと、可笑しくなる。
 そうして、一つ軽く溜め息を吐いてから、話し出す事にした。
「森 和博って名前のヤツです」
「ふぅん…。楽しくやっていけそうか?」
「心配ですか?」
 咲也が笑みを浮べながら聞く。
「そりゃ…な。友達として、心配してしているさ」
 猩々緋は咲也のひやかしに対して、それをものともせず、素直に返してきた。
「…それ…恥ずかしいセリフだと…思いませんか………?」
 咲也が少し恥かしそうに困った顔をする。
 密かな気持ち、この世界で最上級の位に分類される人物に『友達』と言われるのは有り難い事だと思い、そう言おうとも思ったが、その事は口には出さなかった。
 何故なら、猩々緋は時々自分の立場を毛嫌いする癖が、あるように思えるからだった。
 多分この瞬間も、そうだと思う。
 彼が自分の事を友達と言ってきたのだから、外見を飾る階級など気にせずに接した方が良いに違いない筈だ。
「そうか?」
 相手はまるで悪戯っ子の様にニヤリと笑った。
「……まぁ…。時間もある事だろうし…、ゆっくりやっていこうと思います」
 友達とは言われても、あくまで最低限の…俺なりの礼儀は弁えて。
 咲也も落ち着いた笑みを浮べて猩々緋に話した。

 お互いに似ている所があるからか、何を言われてもあまりカチンとこない。その上、何時でも会える人間ではないのに、会話は弾むし…。
 いつも思う事だが…。
 今日は楽しい時間を過ごす事が出来そうだった。






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