【]T】 『契約』=『仲良くしよう』


 
 もう、これ以上驚く事も無いだろうと、思っていたのに。
 今自分の隣に立っている咲也が形容していた『夢幻の世界』とは、そんなに自分を驚かしたいのだろうか?
「なんで…。あんな不釣り合いな扉を開けると、俺の家の風呂場に出るんだ?」
 先程まで居た所を咲也の部屋と、無理に理解したとしても……。
 これだけは、どうしても解せなかった。
 あんな『森の中』みたいな場所の中で、壁も無いのに不似合いな扉が突然現れ…。そこを開けると、どうして…自分の家の風呂場に出るのか。
 この世界は、これが普通だとでも言うのだろうか?
「その内慣れるよ?」
 あかりが何事も無かったの様に、さらっと言ってのける。
 …………どうやら、これが普通らしい――…。
 いつになったら、この普通に自分も慣れるのだろうか…?
 溜め息すら出ない。
「『百聞は一見に如かず』と言うしな」
 咲也も、あかりと似たような事しか言わない。
「和博様…」
 自分がまだ現実たと思っている世界から引き離す、もう一つの声がした。
「何…?遥……」
 ここまでショックを受けたのも、そうそう無い事だろう。
 呆然としている自分の背中を押したのは、遥だった。
 ある一点の方向に自分の注意を向かせる。
「見える物だけを見ようとしないで…。そこに何が存在しているのかを観て下さい。解かりませんか?」
 あかりはその方向―…、これらの発端となった物体である水道へと足を運び、その蛇口を開く。
 迸る水の色は、いつもの色だ。
 よく見ろと言われても…。これ以上、自分は何をよく見れば良いのか全く解からない。
「解からないか…?遥が傍についているのに?」
 馬鹿にしているような口調だった。
「うるせー。俺に何を見せたがっているかは解からんが。俺は何を見れば良いんだ?」
 生まれつき目が見えない人が、視力を取り戻した時に今まで見たこともない世界を見るのと、似ているのではないのだろうかと思ってしまう。
 本当に視点が定まらない…。全く解からないのだ。
「落ち着いて下さい。呼吸を整えて…」
 遥は優しくアドバイスをしてくれる。
「この際だ。俺が見てやるから姿を現せと言ってやったらどうだ?」
 咲也は冗談を交えて言ってくる。
 他人事だと思って…。いや、本当に他人事なのだが…。もう少し、親身になってくれと、思わずにはいられない。
 今に見てろよと、心の中で呟いた。
 その時だった。
「……え…?」
 何かが聞こえた。
「和博様。解かりましたか?」
 見えてはいないが、何かが聞こえる。
 その声は何かの動物の鳴き声か…?
 きゅーきゅーと大合唱だった。
 だんだん聞こえが良くなってくる。
「うるさいぞ…。コレ……」
 あまりの煩さに両手で耳を塞ぐ。
 あかりも困った顔をして一生懸命耳を塞いでいる。
 咲也と遥に関しては、その様な事は全く無く…。平然と立ち、その大合唱が聞こえてくる場所を見つめていた。
 自分もその方向を見てみる。
「あ…」
 ようやく解かった。
 その場に居たのは、水色のふわふわした丸い物体。
 目は丸く愛敬がある。
 触角なのか、頭上に二本のひょこひょこ動くモノもあった。
 一体何匹いるのか…。
 いち…にぃ…さん…しぃ……。
「ろっぴき……」
 これだけいれば大合唱にもなる訳だ。
「数が多いな…」
 咲也が小さく呟いた。
「このままだと『アルカナ』並になるかな…」
 あかりが咲也に言うと、咲也がこくりと頷いた。
 その間もこの物体は、きゅーきゅーと煩く泣いている。
 何故だろう…?自分には何を言いたいのかが理解出来るのだ。
「あーっ。もう!煩いぞっ!…俺はここに居るから。一緒に遊んでやるからっ!」
 そう怒鳴ったら突然その大合唱がぴたりと止まった。
 不思議な物体は、大きな目を更に大きくしながら輝かせ、穴が空くのではないかと思う程に自分を見詰めている。
 助けを求めるつもりで、同行者達に視線を移したが、それも無駄に終わり…。
 それが無駄な事だったと解っただけだった。
 あかり・咲也・遥の三人も、和博の行動に注目していたのだ。
 何をすれば良いのやら…。
 気まずい雰囲気だ。
「あ―……」
 もう…どうにでもなってくれと、口を開いた。
「さびしかったんだろ?見つけてもらえなかったからさ…。ごめんな。でも、わかったから。これからは仲良くしよう……?」
 今はまだ風呂場には湿気も無く、しかも先程から水が流れていたハズなのに、不思議な事に床も乾いている。
 洋服が濡れない事はありがたいのだが…。
 やはりまだダメだ…。
 この世界は理解出来ない。
 しかし、自分はこれらの世界を、受け入れなければならないのだ。
 状況を無視しつつも、タイルの上に座り込み、手を差し伸べた。



   【]U】 これからが始まり


 あの出来事から数日が経った。
 咲也はもう学校には来ない。
 いつの間にか、咲也は転校した事になっていた。
 でも、その本人はここに居る。
「おまえ、歳…いくつなんだよ」
「さてね」
 全く教えてくれない。
 自分の予想としては…。
「二十歳か…?」
 咲也はそれを聞いて、ただニヤリとするだけで。
 いつも隣に居るあかりちゃんだって教えてくれない。
 咲也自体に、まだ解からない事が多すぎる。
「まぁまぁ…。いいじゃないですか。咲也さんが何歳であろうと…。もしかしたら和博様がそのうち越してしまわれるかもしれませんよ?」
 遥が爽やかに言う。
 今、遥は咲也の所に居候させてもらっている。
 本来はいつも一緒の方が良いらしい。
 理由は勿論、俺が家族と住んでいるからだ。
 まぁ、その内自分だって自立するだろうから、一緒に暮らすのはそれからだろう。
「あのなぁ…。遥はまだ知らないだろうから、教えてやるけど…。人間、誰だって同じ時間の中に居るんだ。だ・か・らっ、年齢を越してしまうなんてコト、ゼッタイに無いんだよ?」
 和博が遥に丁寧に教える。
 ところで、今この場所はとてもにぎやかな事になっていた。
「あーっ。こらっ!俺のノートに落書きするなっ!!」
 和博がここに来た理由は、咲也に勉強を見てもらう為だったのだ。
 しかし、いつの間にかその勉強も中断され、今は皆で仲良くあかりの準備してくれたお茶の時間になっていた。
「ノートをそのままにしていたのが悪いのだろう?ルゥ・ミィは全く悪くないぞ」
 『ルゥ・ミィ』とは、和博が最近仲良くなった、あの水色の物体の一般名詞だ。
 楽しそうに遊んでいる六匹のルゥ・ミィを眺めながら、咲也が呆れ口調で言う。
「いーや。俺は悪くないぞっ!!」
「はいはい…。和博様も少しは落ち着いて下さい」
 二人の他愛も無い言い合いを止めるのは、遥の役目になっていた。

 これが、終りの無い話の始まりだった。
 自分は『目覚めろ』と促がされて、この誰もが手に入れる事の出来ない世界を手に入れた。
 その代償がどのような形でやって来るか、判ったモノじゃない。
 咲也の抱えている物が何なのかも全く判らない。
 でも…。


 それでも、手に入れたかったのだ。
 夢のような幻のようなこの現実を――…。










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